2020/01/29 (WED)

【資料紹介】黒井火力反対運動関連資料について①—熊倉平三郎氏の活動と資料群の概要

立教大学共生社会研究センター リサーチ?アシスタント(RA) 長谷川達朗

黒井火力反対運動は、1967年から1972年にかけて、新潟県直江津市黒井地区(現在は上越市)で起こった火力発電所建設に対する住民たちの反対運動のことです。
 黒井火力反対運動関連資料が、当センターの前身である埼玉大学共生社会教育研究センターに寄贈されたのは2007年4月のことです。それから、私が今年の4月に整理を開始するまで、12年もの間書庫で眠っていたことになります。この資料は、理由あって私が共生研で整理する最初で最後の資料になるのですが、それがかくもおもしろい資料であったことに私は少なからぬ喜びを感じています。ここでは、黒井火力反対運動と熊倉平三郎氏に関する概要を、次いで当資料群の概要を述べたいと思います。

黒井火力反対運動と熊倉平三郎

 1967年8月21日、火力発電所の建設予定地が黒井地区であることが明らかとなり、住民は驚愕しました。黒井にはすでにいくつもの工場が立ち並んでおり、公害もみられ、これ以上の公害を被るのは住民もまっぴらごめんだったのでしょう。このとき即座に立ち上がったのが熊倉平三郎氏でした。戦前以来教員を勤め、1967年に中学校長を退職した熊倉氏が故郷の直江津市黒井に帰って直後のことでした。建設計画発覚から3日後の8月24日に、熊倉氏を中心に黒井生活を守る会(以下、守る会)が結成されます。以後反対運動は守る会を中心として約4年半にわたって続くことになり、反対運動の末の1972年、遂に住民たちは火力発電所建設計画の白紙撤回を勝ち取りました。ところが、反対運動にかけた長年の苦労がたたったのでしょうか。熊倉氏は、1972年3月の勝利報告会の最中に檀上でたおれてしまいます。熊倉氏は、たおれた後も守る会の活動に関与するかたわら反対運動に関する回顧録を作成し、1980年4月に永眠しています。守る会は、その後も火力発電所建設計画の再燃問題や用途地域指定問題に関与するなど活動を続け、1983年に解散するまで活動を続けました。

黒井火力反対運動関連資料の概要

ここでは、当資料群の概要を、目録の編成にそって説明します。当資料群は、A?B?Cの大きく3つのシリーズに分けることができます。Aは、守る会の活動に関する資料です。ただし、一部に黒井自治会の史料など、守る会と関係が深い周辺資料も含まれています。Bは、新聞?写真?ビラをまとめたものです。新聞には、黒井火力発電所問題に関する記事の他に、全国の公害関連の記事なども含まれています。CはA?Bに分類できない資料です。黒井自治会に関するものから、反対運動の中で使用されたであろう手ぬぐいなど多種多様なものがCに分類されています。
 守る会の活動に関するAは、さらに細かく3つに分類が可能です。A-1、A-2、A-3の順に説明していきましょう。A-1には、反対運動の経過や、守る会の基本情報などを理解するのに、最初にご覧いただきたい資料を並べてあります。続くA-2は、資料所蔵者が特に重要視し、リスト化にしていた資料を時系列に並び変えたものです。このリストが熊倉氏本人によって作られたのかはわかりませんが、反対運動参加者らの誓約書や、自治体?企業との契約書など、法的にも効力を持つであろう資料も多く含まれており、極めて重要な資料がピックアップされています。最後のA-3は、所蔵者によってA-2に分類されなかった、守る会の活動に関する資料です。しかし、反対運動の歴史を振り返る上では重要なものも多いです。また、白紙撤回を勝ち取った1972年以降の守る会の活動についても資料もここに含まれています。

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